島津家と出水の歴史
★島津家の歴史
島津家の祖である島津忠久(惟宗忠久)は鎌倉幕府の御家人(源頼朝の子という説もあり)で、文治2年(1186)に薩摩・大隅・日向の地頭に任命されると家臣の本田貞親を派遣し、この地方の動向を探らせたあと、建久七年(1196)現在の出水市に木牟礼城(きのむれじょう)を築城しました。山田聖栄自記や島津国史、三國名勝図会などによると、山門院の木牟礼城から島津院(宮崎県都城市)に移ったとする伝承もありまが、史実としては忠久が山門院、島津院に移住したかは定かではなく、伝承にすぎないとも云われています。島津忠久は鎌倉で活動してそこで生涯を終えました。墓は鎌倉市にあります。二代目島津忠時も同様に鎌倉で没しました。三代目島津久経(ひさつね)が元寇(げんこう)を機に下向し、鹿児島に浄光明寺(南洲神社の隣)を建立しました。四代目島津忠宗は父と共に元寇に参戦し島津氏として初めて薩摩の地で没しました。 島津家当主で南九州に土着したのは五代目島津貞久以降です。その後、延元4年・暦応2年(1339)頃造られた碇山城(いかりやまじょう)(薩摩川内市)に守護所が移りました。南北朝の動乱の後、総州家と奥州家の勢力争いが起き、総州家が奥州家に滅ぼされると、総州家の木牟礼城もその存在価値を失い廃城となりました。木牟礼城の近くにある野田の感応寺(現出水市野田町)には、島津五代(忠久、忠時、久経、忠宗、貞久)を祭った五廟社(ごびょうしゃ)と呼ばれる墓があります。出水は島津氏が南九州を支配する最初の拠点となったところです。
木牟礼城跡
感応寺の五廟社
三國名勝図会の木牟礼城
★島津忠久と山門野(長島)
三國名勝図会では島津家初代忠久が木牟礼城に来た時の様子が書かれていますが、木牟礼城に来たかどうか定かではないようです。
山門野(やまどの)
(地頭館-野田の地頭館-より北西2里16町ほど)。この辺りを俗に山門野村と呼ぶ。この島(長島)の古い記録に得佛公(島津忠久)が初めて国に入る時、獅子島に船を着け、それからこの島の 山野の地に渡られた。この時はここに感応寺という寺があり、公は暫く滞在された。その後、出水木牟礼城に行かれた。この時、感応寺の住職は公(忠久)に従い、この島(長島)の感応寺を野田に移した。現在はこの地には感応寺の寺跡があり、寺山と云い伝えられている所がある。また寺地という所もあり、この寺跡にこの島の菩提所長光寺第八世の住職、才圓和尚は庵を作り隠居したと云われている。(才圓和尚は正徳3年没)野田感応寺に伝わるものとは異なっているが、今このことを違う説として紹介する。

※木牟礼城が築城された鎌倉時代は、木牟礼城のすぐそばまで入り江になっていて、城の近くまで来れたようです。しかし他の文書にも忠久が木牟礼城に来たという記録はあるようですが、伝承にすぎないとも云われています。三國名勝図会が書かれたのは、木牟礼城築城からほぼ600年後であるため、長い年月の間の言い伝えとして残っていたのでしょうか。
★薩州島津家の歴史
室町時代~戦国時代、出水・阿久根を統治していたのは薩州島津家と称された島津氏の分家にあたる一族でした。島津宗家8代当主である島津久豊の次男、薩摩守と称した島津用久(もちひさ)(好久)が初代となり1453年頃、出水の亀ヶ城(花見ヶ城)に入りました。2代当主国久の死後に起こった御家騒動は、他の分家をも巻き込んだ騒乱となりました。一時は半独立状態にありましたが、5代当主実久は島津宗家当主の座を巡る争いで、一時的に宗家当主・薩摩守護に就いたと考えられていますが、最終的には同じく分家の伊作家、忠良、貴久親子に敗北しました。以後は島津宗家を継いだ貴久に従うことになります。7代当主忠辰(ただとき)は豊臣秀吉の九州平定の際、肥後国方面にあり八代南方の高田(こうだ 現在の肥後高田駅近辺)を守っていましたが、肥前国島原の有馬晴信の裏切りによって本領出水に撤退しました。天正15年(1587)4月、秀吉に降伏し本領を安堵されました。 文禄2年(1593)、朝鮮出兵の際には島津義弘に属して出兵することになっていましたが、義弘と陣立(じんだて)を別にしてくれるよう秀吉に直訴しました。秀吉は忠辰の願いを聞き入れなかったため、やむなく義弘と共に玄界灘を渡ったものの病気と称して上陸しませんでした。この忠辰の行動は秀吉の激怒をかい、同年5月1日、肥後宇土城主の小西行長に身柄を預けられ幽閉された上で改易を申し渡されました。それからほどなくして、朝鮮加徳島の小西陣中にて病死し、(享年28才)薩州家はその所領を失うことになり、出水・阿久根は豊臣家の直轄領となりました。その後、島津家に返還されています。
出水市龍光寺 薩州島津家7代の墓
現在の亀ヶ城配置図
★三百塚
文禄2年(1593)、朝鮮の役で秀吉にに改易を言い渡され、その後病死した忠辰の遺骨を持って出水の帰ってきた家臣達は、出水が秀吉の直轄領になっていたことに愕然となります。 薩州島津家の城であった亀ヶ城付近に葬ることもできず、少し離れた大野原(おおのばる)に丁重に葬りました。その後、帰るところも無くなっていた 家臣達は、その近くで切腹して殉死しました。たくさんの家臣達が亡くなったということで、この場所は三百塚と呼ばれるようになりました。ここは薩州島津家の悲しい歴史がの残されている場所です。
三百塚
忠辰供養塚、三百塚地図
島津忠辰供養塚 
島津忠謙 イボ神様 
★島津義虎と島津近久(忠謙)
三國名勝図会(さんごくめいしょうずえ)に薩州家の6代島津義虎と叔父忠謙に関する記述があります。
専修寺

現代語訳
専修寺上人
了悟山見姓庵(地頭館から南西300m)は武本村にあり、開山終天和尚や成り立ちは詳しくは分かっていない。島津常陸介近久(忠謙)(薩州家系図には実久の弟常陸介近久という者はいない。大隅守、摂津守、山城守、中務という名があり、この4名のうち誰かが後に常陸介となったか※1)は薩州家実久(5代目)の弟で6代目義虎の叔父だった。野田城主で長島も領地とし(※2)、威恵衆も従わせていた。しかし義虎に告げ口するものがあり、義虎は使いをやって騙して出水城内に招き、城の中門に於いて薙刀で殺そうとした。近久(忠謙)は逃げて外城後門の内側で自殺した。この時近久は怒りに耐えかねて、腸(はらわた)を掴んで近くの山茶の枝に投げかけたということだ。義虎は命令を下して死骸を松原川原(※3)に捨てさせて、これに触れば同罪とするとした。終天和尚は深く悲しみ、同罪となってもいいと思って近久の死骸を引き取り見性庵に葬った。墓の後ろには後世に島津と唱えるために椎と松(しい・まつ➡しまず)の2本の木を植えた。この木は今も古木として残っている。結局終点和尚は罪に問われることはなく、近久の墓に梅室定香大禪伯と記した。近久は死後、常陸風となり、この辺りに祟りによる怪異が多くあったため六地蔵を自殺の所に建てた。また、野田、長島などでも近久(忠謙)の祟りがあるとして(疫病がまん延)、ゆかりのあった場所に祠堂(若宮八幡※4)を建てた。
※1 系図にも近久は載ってないということですが、現在出水では野田城主、島津忠兼という名前で伝わっています。この記事の内容から近久は忠謙と思われます。 
※2 義虎に命じられて肥後国だった長島堂崎城を攻め。長島、獅子島を領地としました。
※3 現在のスーパーよしだの近くの平良川にある松原橋付近か
※4  長島堂崎城跡、川床、野田亀井山新城跡にあります。また長島では近久(忠兼)の命日の7月8日には霊を慰めるためとして踊りを奉納するようになりました。現在も長島で8月8日(新暦)に行われている「ご八日踊り」として残っています。
〇見性庵は地頭館(御仮屋―現在の出水小学校)から南西300mにあるとされているため、現在の龍光寺あたりだと思われます。龍光寺横の墓地にはイボ神様として忠兼が祀られていますが、忠謙が葬むられた場所かも知れません。
〇タイトルは専修寺上人となっていますが専修寺の記述はありません。現在の専修寺橋の北側にあった寺ですが、見性庵は専修寺の住職だった終天和尚の庵だったのでしょうか。

野田 若宮神社
野田若宮神社説明文
堂崎城跡 若宮神社